―『障害者とともに働く』提言・体験手記― 日本障害者雇用促進協会が、障害者の雇用促進運動の一環として、 障害者の雇用の促進と職業生活の向上に資するため、昭和54年から隔年ごとに 提言・体験の手記の募集を行っています。 12回目の平成13年に「障害者の職業生活の向上をめざして」のテーマに応募しましたところ、 日本障害者雇用促進協会会長賞に選ばれ、広島での表彰式のため広島へ一泊、 副賞として10万円を頂きました。が、全部私が使ってしまいました。淳司君ごめんなさい。
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講評: 自閉症の子供の職業選択の可能性を広げるために示唆に富んだ内容が盛られており、 全体として母と子との真剣な取り組みが、よく表現されています。 |
「転職」 23歳(注:平成13年時の年齢です)になる自閉症の息子が転職をし、 生き生きと暮らしている今をお伝えします。 卒業後の就職に先がけて各務原養護学校高等部の2年生の夏休みに 紳士服のズボンを作るという現場実習を初めてしました。 しかし、自分で思っていた仕事とは違っていたのか「すぐやめる」と言いました。 次の春休みにクリーニング屋さんにお願いし実習をしましたが、 ここでは「障害者は偏食だから弁当は取りません。集中力がない」などと、 全くと言っていいくらい本人の能力、障害者を認めてもらえませんでした。 会社の人ともうまくいかなかった様です。 本人は印刷会社へ就職したいと言っていましたが、そんな所から 求人があるわけもなく、職種よりまわりの人の理解がある所へと 3年生の実習は、すぐやめると言った縫製会社へ行き、本人をよく 知ってもらい就職する事にしました。 その会社の評価は、「時折発する奇声が皆を驚かせます。それ以外は 充分に自立できると思います。」という良いものでした。 その縫製会社は障害者が数人働いており、お昼休みはキャッチボールを してもらったりし、とても可愛がってもらっていました。 しかし、子供の口から出る言葉は、他の会社を見ては、 「あそこで働くとたくさんお金がもらえますか」でした。 そして、1日200本のズボンのアイロンかけが、ノルマのようで、 できないと注意され家でパニックを起こしていました。 そんな事が1年半で3回程ありました。これでいいのだろうか、 本人が会社へ行くのが嫌だと言ったら何か考えようといつも私自身思っていました。 小さい頃から絵や工作が好きで、とてもユニークな絵を描いていました。 就職をしないであの子の才能をもっと伸ばしたらと言われる方もいらっしゃいましたが、 就職できるのであればさせようと思い、したのですが 意外な所で、転職のチャンスが訪れました。 人に葉書を出す事が大好きで、ある日子供に頼まれ暑中見舞状の絵のカラーコピーを するために、あるデパートの専門店に行きました。 店長さんと「うちの子、障害児なんですよ。こんな絵ばかり描いて……」 と、話していますと、その絵を見て、「本人さんの生きがいとなるならば作品があれば 置いてあげますよ。ただし売れないかもしれませんが」と言われたのです。 これからは、もう大変なことになってしまいました。 ずっとこだわってきた十二支の絵でカレンダーを出そうと色々な方に 相談し決めたのですが、家に帰りその事を話しますと当の本人は、嫌だと言うのです……。 「お金がもうかるよ」と言いましたらしぶしぶ描き出しました。お金は大好きだからです。 しかし、根っから絵が好きなのか1ヶ月くらい絵を描く事に没頭していました。 泉のようにアイデアが次々に出て来るようでした。 会社からは寄り道もせず早く帰り、夜11時半くらいまで、毎日描いていました。 次に絵が完成したから印刷にということになったのですが、 印刷会社ではとてもカレンダーを作るという事は金銭的に高く、 もっと安くできないかという事で親戚に岐阜ちょうちんの印刷をしている所があるから そこで聞いてみることにしました。 すると快く引き受けてもらえ、絵を持って見積もりに行きました。 そこで絵を見ながら「この絵を描いた子を連れて来て。本人が自分で印刷できるように 仕込んであげる。安くできるし、それが一番いい」 と言われてしまいました。 こんなチャンスはまたとないと、図々しく子供を連れて行きました。 半日程子供の様子を見ていて、 「ここへ来ないか?印刷の仕事に就きたかったのなら、 そして10年勤めても給料が変わらないのならここへ転職したらどうか。 仕事場を広くして一人募集するところだったから」と。 本当に夢のような話でした。 しかし、そんなにうまくはいきませんでした。また、本人が嫌がったのです。 岐阜ちょうちんの絵をシルク印刷する職人仕事なのですが、1日実習に行かせてもらって、 帰り家まで送ってもらって開口一番。 「アイロンかけの方が簡単です。 主任は失敗したらお金がもらえないと言いました。僕やめます。」 よくよく聞くと一日中つきっきりで、あれもこれもいろいろ教えてもらったのだそうです。 きっと頭の中が混乱してしまったのだと思います。 家では、そのパニック状態の中で話し合いました。 あの子の考えは、「失敗したらお金がもらえない。僕は10枚失敗したら 給料がなくなる」と思ったらしいのです。 そうではなく本当に失敗しても給料からは引かれないし、 今までぐらいはもらえると説明しました。 また通勤の事もひっかかっていたようで、今まで会社の送迎バスに乗っていて 楽をしていたのが、今度は自転車でJRの駅まで行き、電車に乗りまたバスに乗り換え 会社まで行かなくてはならない。 それに仕事はアイロンかけより難しいのですから、 パニックになって当然だったのかもしれません。 いろいろ話し合い、最後に「僕、仕事かわります」と決断しました。 しかし、そうは言っても不安はすごくありました。 新しい会社に勤めだしてから3年が経ちました。 お給料は、最初は前の会社より少し多めでしたが、仕事ができれば 順番に上げるという約束どおり5ヶ月経ってよく頑張ってくれるということで お給料は上がりました。以前の会社の約2倍になりました。 本人の言葉を借りると「僕大金持ちです。」 これで、またやる気満々になりました。本当にタイミングのいいお給料の上げ方でした。 伊藤君が来ないと困るなあ、本当に頼りにしているからなどと言われるものですから すっかりその気になっています。今年、後輩が入社し自分の方が上だとわかったのか 仕事も早くなりその後輩にもいろいろ教えるという事です。 小さい頃他人は全く関係なかった子がそんなふうに変わるということは最初耳を疑いました。 仕事を任せれば完璧にやる。一人前になったというお墨付きまでもらいました。 どんな子もよい環境に置かれれば変わるという事を実証しているのではないかと思います。 周りの人に認められ、頼られるということは誰にとってもうれしい事であると思います。 自閉症ということから几帳面で、細かく仕事はきれい。 きれいにやらないと気が済まないというこだわり。 今の仕事は1ミリの印刷のずれも許されません。 本当に自閉症の特徴を充分発揮できる天職のように思います。 今年も3度目のカレンダーを販売し、多くの人に喜ばれています。 今年は自分一人でパソコンを使いすべてやりました。 これも上司が根気よく、パソコンの指導をして下さったお陰です。 また、販売は、最初声をかけて下さった店長さんの所でしてもらっています。 会社の帰りは、岐阜市の繁華街で途中下車し、買い物をしたり食事をしたりして 楽しんでいます。自分に合う職業に出会えたこと、理解ある人達に巡り会えたこと、 刺激のある環境に置かれたこと、これらの事で本人自身随分変わりました。 また、通勤のネックであった自転車の通勤時間を減らすためと私たち親が年老いても 一人で通えるようにと駅まで歩いて3分というマンションに引っ越しました。 これはとても良かったと思います。 最後に思い出す言葉がひとつあります。 職業安定所に仕事を探しに行った時の話です。 「2,3度転職しても良いから、本人に合う仕事に出会えればよい。」 本当にその通りだと思います。 (終)
平成17年3月 用があり、会社に午後5時(退社時間)に迎えに行くと、 全然仕事場から出てくる様子がないので、会社の人に聞くと 「後片付けをきちんとしてから帰る。納期に間に合うよう 残ってでも仕事をしていく。責任感が強い。」 など、私の知らない一人の責任ある社会人の淳司の姿がありました。 20分頃、自信に満ち溢れた淳司が2階の仕事場から降りてきて、 ちょっとびっくりしてしまいました。 我が家の淳司とは全然違いました。| SEO | [PR] 花 新曲 CD 芸術 | 無料レンタルサーバー ブログ blog | |